◇異例の展開の末
静岡市で02年12月に死亡ひき逃げ事件を起こした元トラック運転手の後藤一人被告(25)に、静岡地裁(竹花俊徳裁判長)は10日、懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。署名活動を全国に広げた遺族の思いと、それに応えた静岡検察審査会の二度の議決。異例の展開をたどったこの裁判では「市民の常識」が地検の判断を覆し、裁判所もそれを認める形となった。今回の裁判は、検察のあり方や市民とのかかわりを考えるうえでもさまざまなことを提示している。【古関俊樹】
同日は、判決言い渡しの前に検察側が弁論再開を申し立て、被害者の望月誠人さん(当時33歳)の妻瑞穂さん(39)が出した厳罰を求める上申書が提出された。上申書の最後のページには、瑞穂さんら遺族が、ひき逃げでの起訴を求めて昨年春に集めた署名の写真が添付された。
地検が当初、ひき逃げでの起訴を見送るきっかけになったのは、最高裁が1969年に出した「被害者の死亡が明白な場合以外は加害者に救護義務がある」という決定だった。運転者の救護義務を幅広く解釈した内容だったが、地検側は「事故後、望月さんは死亡が一見して分かる状態だった」とした。
しかし、検察審査会の議決は現場に停車もせずに走り去った後藤被告の行為について、「検察側は判断を下していない」と真っ向から異議を唱えた。検察審査会が同じ事件に複数の議決をすることは極めてまれだ。2回目の議決の後、事務局幹部は「遺族の無念に審査会も応えたのでは」と語ったが、地裁判決も「死亡は一見して明白な状態ではなかった」と認定した。
判決後、静岡地検は「執行猶予には不満が残る。上級庁や遺族と話し合い、控訴するかどうか決めたい」とコメントを出した。後藤被告の弁護人は「裁判所は冷静な判断を下したと思う」と語った。
◇「執行猶予で社会復帰は許せない」−−被害者の妻
「がっかりした」−−。執行猶予付きの判決が言い渡された瞬間、望月さんの妻瑞穂さんはうつむいたまま体をこわばらせた。望んでいたのは実刑だった。法廷を出た後、「今は言葉になりません」と目を潤ませてつぶやいた。
「大切なたった1人の同志」。瑞穂さんは裁判所へ提出した上申書に夫のことをそう記した。夫をひき逃げした被告は、裁判官に強く促されるまで謝罪にも訪れなかった。「執行猶予で社会に戻ることは絶対に許せない」と強く感じる。
厳しい闘いだった。当初は不起訴だったひき逃げでの起訴を求め5万人余の署名を集めた。静岡検察審査会へ2度申し立てをし、最後には厳刑を求める嘆願書も集めた。「夫への私の気持ちが裁判所に届かなかったのかもしれません」。瑞穂さんは検察側へ控訴するよう求めるつもりだ。【小林慎】
◇求められる市民感覚−−遺族に余計な心労
事故発生から約2年の歳月を経て下された判決には「遅すぎた」という感じが否めない。当初からひき逃げでの起訴に踏み切っていれば半年以上は時間が短縮できたはずだ。そして何より、署名活動をしたり、2度にわたる検察審査会への申し立てなど、事故で傷ついた遺族に余計な負担を与えることもなかった。
「被害者は身体の重要部分が切断されるなど、一見して死亡が明白だったとは言えない」「被告は(負傷者の救護という)運転手として最も大切な義務を怠った」。そう述べた今回の判決は、一般市民の視点を大切にしたということもできる。提出された証拠には「誰が見ても(被害者は)即死していた」とする医師の証言もあったが、現場を通りかかった車の運転手らの目撃証言を重視し、ひき逃げの罪を認定した。
遺族の出発点は、現場に立ち止まりもせずに逃げた被告の行動が、ひき逃げに当たらないとした検察側への素朴な疑問と怒りだった。市民感情に照らせば当然のことなのだが、検察審査会の異例の議決がなければ検察側は果たして腰を上げただろうか。
司法の現場では現在、「被害者保護」の流れが強まり、市民感覚に沿った判断の大切さを指摘する声も多いが、地検による署名の提出拒否にも大きな疑問が残った。03年6月のひき逃げ死亡事件で宇都宮地検は「悲惨な事件を繰り返させてはならないとの声には耳を傾けるべきだ」として署名を法廷に提出している。遺族の苦しみを直視しようとする検察官がいる一方で、そうでない検事に会ってしまえば、遺族の苦しみが倍増される悲しい現実を今回の裁判は示している気がしてならない。【小林慎】
毎日新聞 2004年11月11日